「The English Physitian」 の著者ニコラス・カルペパー( Nicholas Culpepper )さん。ハーブ療法の父 とも言われております。さて、どんなお方でしょう。
彼は当時の医者を批判し、自らの健康は自らが守ることを主張しました。彼の知識には
薬草やハーブに関するもののほかに占星術など文化的なものも含まれていました。
アロマテラピー検定テキスト2級 社団法人 日本アロマ環境協会
もうちょっと、詳しく知りたいですよね。
誕生は
1616年10月18日 イギリスのOckleyで聖職者の息子として誕生。生まれる前に名家のお父様は亡くなり、 牧師であった母方の祖父の家で育ちます 。生まれたのはロンドン・ガトウィック空港の滑走路の端から2マイル弱の辺りらしいです。
ここの空港には、お名前ずばりThe Nicholas Culpeperと言うパブ&ダイニングがあります。流石イギリスです。 イギリスにはCulpeper the Herbalistsという、カルペパーの名前が由来のハーブショップもあります。
キュー王立植物園 の分園であるウェイクハースト・プレイス Wakehurst Placeを建てたウエイクハースト男爵はカルペパーの遠縁にあたります。ここは200万平米 程の広さがあり、ラベンダー、ヒソップ、マジョラム、セージなどアロマ好きとしては、ぜひ一度行ってみたい場所です。
大学生活は遊んでました?
16才でケンブリッジ大学に入学!さすが賢い!って思いますが、まじめに勉強していた大学生ではなく遊び惚けていたようです。そして父親の財産を使い果たし、牧師になる条件つきで母方の親戚の援助を受けながらの大学生活。
その当時付き合っていた彼女が会いに来る途中に事故で亡くなり、ショックで体調を崩し、復学もせず、牧師も継がず、援助は打ち切られ、母も亡くしてしまいます。と、ここまででも映画化できそうな人生でございます。
その後、本領発揮
薬剤師の徒弟になります。その後結婚もし、占星術師、薬剤師として自立。困っている人は無料で、お金持ちからは沢山いただくというスタイルで診ていたようです。
そして当時の ハーブ療法、医学書 はラテン語で書かれていたのを、多くの人が分かるように英語に訳すという事を始めました。これは、周りの医者などから独占権を侵害したと非難を浴びますが、一般の人を救うために英訳を続けます。総計79冊の書物を書き、訳したそうです。
若くして。。
クロムウェル軍に参加したこともあり、この時の胸部の傷が肺の機能に障害を残していました。ハーブ療法の仕事、英訳の仕事をこなし、段々と健康を害し、結核にかかり38才の若さで亡くなってしまいました。
1654年1月10日 没
本
一般の人々が薬草を手に入れ、病気を治療できるようにと「英国薬局方」 (BritishPharmacopoeia) を訳して出版しました。
亡くなる1年前の1653年、カルペパーの業績の集大成「CULPEPER’S COMPLETE HERBAL」を出版しました。 日本でも和訳の本「ハーブ事典」が出版されています。
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